昭和40年12月21日 朝の御理解
どういう信心をさして頂いたら、おかげが受けられるだろうか、おかげを受けたい。おかげを受けたいと思うて一生懸命お参りもする修行もする、お話も頂いてみる。一生懸命におかげを頂きたい、おかげを頂きたいとおかげを頂きたいと云うて信心をする。その、おかげを頂きたいということが、おかげにならない。よくよくそれを検討して見ると、本当に、悲しい時の神頼みという様な、何というか、いわゆる枯れ木に花の咲く様なことを一生懸命願うておる。
これじゃ、枯木に花が咲くはずがない。自分の力量も無い、自分のそういうおかげを受ける器も無くてから、おかげが受けたい、おかげが受けたいというていかにお参りしたところで、拝んだところで修行したところでおかげが受けられんなら、そこに分らにゃいけん。そこもやっぱり大事なんだ、一生懸命やってみるということも大事。一生懸命お参りをしてみる。お話も頂いてみる、けれどもおかげが受けられん。
そして何かしらんそういう様な漠然とした、何時かおかげが受けられるだろうと言った様な、その事が本当に枯木に花が咲く様な事を願っておるんじゃなかろうか。甘い、考え方が、神様が何か本当に枯木に花の咲く様なおかげをです、下さる時があるだろうかと言う事を心の中に、いわば百万円の宝くじを買うてから何時も夢見ておる。何か夢がある事は有難いんですけども、そういう夢では本当に夢に過ぎないでしょうが。
そこで私はそのそういう信心も、やっぱ一生懸命様々な意味でやっていることはありがたい。そしておかげを受けられん時にです。枯木に花の咲く様なことを願っとる自分達、自分ではなかろうかと、こう分からして頂いたらです、枯木に花ではなくてです、本当に咲かなければならないはずの、いわば生きた木に生きた花が咲き、生きた実りがある所のおかげをですね、頂いていく事に務めなければいけないと思う。
生きた木、生きた花が咲き、そして生きた実りがある。そこんところをです、疎かにしておる。日々、例えばこれだったら教えを頂いて、その日からやはり花を見ることがでけるのであり、実りを感ずることがでけるのである。此処のところの信心がでけなければだめだと思う。そこんところが、いうなら何事にも信心になれよということなんです。『信心する者は何事にも信心になれよ』と もうこれだったらですね。
これだったら、その日その日にです、信心の尊さありがたさ、なるほど、道徳と宗教の相違をです、はっきり分かることがでけるのです。その生活全体がです、教えにもとずいて、本気にいわば行動するいうか、そのことのいうなら行者にならしてもらう。こういう考え方、こういう思い方、こういう物の見方、これでは助からん、これで幸せになるはずがない。私は、その日その日のです。
日々のいわゆる信心は、日に日に生きるが信心だと、日に日に生きていくことそのこと全体が信心なのだ。ここんところを疎かにされては、お互いのその夢は実現致しませんですね。ここんところを繰返しの日々の信心の喜びの花が、実りがです、蓄積されていくところのおかげを頂いて、始めてお徳という。お徳を受けさせてもらわなければ、いうなら夢にも思わなかった様なおかげに進展してこないと思う。
信心のおかげというのは、本当に夢にも思わなかった様な、ところが、私共はです、そこんところの夢ところだけを願っとる。枯木に花の咲く様なことばかりを願っとる。そして、どうしておかげが受けられんのじゃろうかというておる。だからですいうならどうしておかげが受けれんじゃろうかと、どうしてどういう信心すりゃおかげが受けれるじゃろうかといった様なことではなくてです成程。
これはおかげが受けれん筈だというものを、追求していくが一番有難いと思う。成程これじゃおかげが受けられん筈だと、これじゃおかげが受けられん筈だと、心のこの心の状態ではこういう修行では、こういう裏表のある心ではこういうだなしのない自分では、これじゃおかげが受けられん筈だと言う所を分かって、そこんところを私はおかげの受けられん筈だというものを、私の心の中からひとつひとつ取り除いていく所にです、おかげの頂けれる世界に出ることがでけると私は思う。
皆さん、夢で一生終わったちゃつまらんですばい、百万円の宝くじを追う様なつまらん信心はやめにゃいけません。枯木に花の咲く様な信心、成程、私共も随分聞いてきた話の中にはです、信心ちゃ何ち不思議なことじゃろうかと、何ちありがたいことじゃろうかと、ああいうおかげが受けられるというのを見たり聞いたりして来とるけれどもです。そういうところに目をおかずにです、日に日に生きるその事が信心なのだと。
これを大事に育ててさえいけばです、生き生きとして芽が出る。生き生きとして葉が出る、生き生きとして花が咲く、間違いなく実りがある。その事をようせんどいてから、只枯木に花が咲く様な、枯れ木に花が咲くようなことばかりをを願っとる。これではね、いわば成程夢はあるでしょう、神様は何時かおかげ下さるじゃろうと、今、おかげの受けられんとは、神様のご都合じゃろう。
さあ一生懸命拝もう、一生懸命参ろう、一生懸命話を頂こう、ねぇ そういうお話の頂き方ではおかげにならんです、枯木に花は咲かんです。日々の中に今日もおかげを頂いてありがたかったと、今日も一生懸命ご用にお使いまわしを頂いてありがたかったと、もう、自分の思っておること、その思うておること、今、自分が行うておること、今、自分がいうておることそのことをです。
信心にならせて頂いてごらんなさい、そこを実意丁寧に頂いてごらんなさい。もうその日、日々の上にです、実りを感じ、花を心に見ることができるだろう。そこんところの信心の喜びでなからなければ、私は、生き生きした日々の生活、いわば神様のご機感に叶う生活が出けんと思うです。神様のご機感に叶う生活、神様の心に叶う生、これを右左にしておいてから、枯木に花ばかりを願うたってつまらんですよ。
どうすりゃおかげが受けられるじゃろうか、どげな信心したならおかげが受けられるじゃろとばっかり考えたっちゃつまらん。そこも大事、そうしてみておかげが受けられんなら、おかげの受けられないもと、どうしておかげが受けられんだろうかと、これじゃおかげが受けられんはずだと、これではおかげが受けられんはずだというものを、自分の日々の生活の中から発見していく以外にないです。
第一実意が欠げとるもん、自分の思い方、間違うとるもん。ねえ、朝の拝む時だけ信心になっとるばってん、その中はいっちょん信心になっとらんもん。これじゃおかげが受けられんはずということが分かるんです。そうしたらだからおかげの受けられんはずという、そのものをとっつかまえるそれに取り組む、そしておかげの受けられる状態に一言一言ならせて頂くということ。そこにいわゆるおかげが頂かれる。
そういう生き方を、私は日に日に生きる事が信心だというのは、そう言う事だと思う。そこに、私は信心の生き生きした喜び、今日もおかげ頂いて有難かったという生活が出けると思う。そこんところを疎かにして枯木に花の咲く様な夢の様なことを願って、そう言う事が信心かの様に思うておる。も。人間の知恵やら力やらどうにもでけん神様に助けてもらわにゃ、そういう働きをもってござる神様ではあるけれどもです。
そういう働きを、神様の働きとしていわば現わすもの、人間の知恵やら力では、どうにも考えにも及ばない、様なおかげを現わしていくもの。それは、私共日々の生活の中に実意丁寧をもとにしたところの、いわゆる信心生活がなされて始めて、神様の大きなそうした働きを、受けることがでける。いうなら、夢にも思わなかった様な、おかげに進展していくわけなんである。
夢にも思わない様なおかげをです、神様は何時か下さる、枯木に花が咲く様な、ことを願えておってです。それを信心という様に思うておる、まそういう時代もあって、よいことはよいと思うんですね。いわゆる、お願いのために一生懸命参る。おかげを頂いたり、おかげを受けられなかったり、ところが、その肝心要のところの、おかげが受けられないとするならばです。
もう、いい加減そこんところをです、どうすりゃおかげが受けられるじゃろか、どうすりゃおかげが受けられるじゃろうかというところに、いう様なものではなくてです。これじゃおかげの受けられんはずだと、これではおかげの受けられるはずがないと、自分のおかげの受けられる器の方をです。見極めていってです。そこを一つづつでもおかげの受けられないもとをです、取り除いていかなければいけないと思うですね。
もうそれをです具体的にお話をするとですね、もうおかげの受けられんはずだというものが沢山出てくるのに驚きますですね。はあこの人はこれだけ一生懸命信心しよんなはる、誰が見たって一生懸命信心しよんなはる。はあ、しかしあれじゃ、これじゃ神様もやっぱおかげやんならんはずだというものを、皆さんの上に感ずるです私は、ね。そこんところを分からして頂くことがです、信心なのですよ、自分の。
そしてそれを取り組んで、もう日々のおかげの中に信心をさして頂いておるおかげをです、感じさして貰えれる様な信心が続けられてです、始めて夢にも思わなかった様なというか、枯木に花の咲く様なというか、成程そういう、おかげも下さる事の出来る神様であることを体験することがでけるでしょう、そういうおかげを頂きたいと思うですよね。 どうぞ。